普寛様と和邇御嶽山

「霊神は一心の行者、一心は普寛の行者。霊神は普寛の行者である。この滋賀大教会は普寛の徳を称える教会である。」 末吉大神

〈霊神信仰とは〉

御嶽山には、人が亡くなった後、その御霊を「霊神(れいじん)」として祀る信仰があります。

普寛行者の弟子であった一心行者はその行力で以って関東一円の人々を祈祷して回り御嶽信仰を広めた大功労者です。その一心行者は「御嶽山を信ずるものは死後引き寄せを受けて童子即ち神の眷属になる」と説いたのが霊神信仰の始まりです。

当和邇御嶽山や全国の御嶽講では、「御座」によって霊神が神がかりし、子孫にお告げや言葉をかけて下さるという信仰の姿が受け継がれております。和邇御嶽山の霊場「香霊殿」は木曽の王滝口にあり、教祖始め歴代教会長、御信徒の方を「霊神」としてお祀り申し上げております。(お墓とは異なります)

和邇御嶽山では教祖霊神の代より御嶽山の大神の御神徳を慕い欠かす事無く毎年の登拝を仕えております。

普寛(ふかん)さまについて

信州木曽御嶽山開闢の聖者と讃え奉る、普寛行者(一七三一~一八〇一)は正本山本明院と号し、諡は信英、武州秩父郡大滝村の人である(現在の埼玉県秩父市)。

俗名は好八、長じて左近と称した。同地の木村信次郎の子として生を承けられたのだが、浅見家の養子となり、一時は酒井雅楽頭(忠恭か?)の下に二十五人扶持を得ていた。

しかし、郷里に近い三峰山観音院の住職であった日照の進めに感じるところあり、明和元年に致仕の上出家し、三峰山観音院において天台、真言の二宗を学び、修験の道に入ったと伝えられている。

 

その後、江戸法性院において三峰山配下の修験として活動し、その中で修験道の巫儀である憑祈祷から、新たに、現在「御座」といわれる巫儀を編み出したと伝えられている。

 

その御座の告げのまにまに、寛政三年四月には郷里、秩父大滝村に意波羅山三社大権現を勧請し、翌四年六月十日には信州木曽御嶽山を開闢している。

これに先立つ天明五年(一七八五)六月には尾張の覚明行者(一七一八~一七八六)によって、七十五日の重潔斎なくしては登拝が叶わなかった御嶽山に登拝を強行し、中興を成し遂げたことに依り、寛政三年(一七九一)は軽精進による登拝が許可されたところであった。普寛行者は、木曽から出稼ぎに来ていた杣の吉右衛門(後の王滝院啓岳、吉神行者)や、与左衛門から情報を収集し、覚明行者が中興した古くからの登山道であった黒沢にではなく、脇参道的な位置付けであった王滝口を、御座による神慮を以て開闢している。その道々に神仏を勧請し、登拝に新たな宗教的意義を与えつつ、寛政四年六月十日、弟子である和田孫八(後の明岳院広山)を中座(霊媒)として、御嶽山座王大権現を顕現させたのである。ゆえに覚明行者を開山の聖者と称えるのに対し、普寛行者を開闢の聖者と称えるのである。

普寛行者はこの御嶽山開闢にあたっては、米、麦、栗、大豆の五穀を断つ木食行を行っている。木食普寛行者と称する由縁である。

その後、普寛行者は寛政六年(一七九四)には越後八海山を、弟子である円城院泰賢(一七六七~一八〇四)や、その他の弟子や信者を率いて開山し、提頭羅神王を祀っている。

翌寛政七年(一七九五)には上州武尊山を開山し、武尊山大権現を祀っている。

享和元年九月(一八〇一)に風邪をもとにして武州本庄宿(現埼玉県本庄市)の米屋弥兵衛宅にて入寂。遺体は火葬の上、安養院の墓所に埋葬された他、御嶽山花戸、郷里である秩父、江戸、武尊山に分骨されたと伝えられている。

弟子や信徒によって埋葬された後、七回忌にあたる文化四年(一八〇五)には金剛院順明によって石塔(宝筐印塔)が建立されている。

現在の埼玉県本庄市中央に、御嶽教直轄の霊場として墓域が整備・保存され春秋二季には大祭が行われ、日本全国から先達・信徒が雲集している。

御嶽山信仰においては、今なお普寛行者の御霊は御座法を通じ我々御嶽山を信じる全ての人を見守り、導きを与える存在として生き続けている。

「霊神は一心の行者、一心は普寛の行者。霊神は普寛の行者である。この滋賀大教会は普寛の徳を称える教会である。」と昭和五十年十一月十六日の伏見稲荷山参拝の折、二代・一心行徳嶽霊神に降臨した末吉大神がお告げされて以来、当教会は普寛行者を殊に崇敬し、その御心を世に広めるべく努力邁進している。

 

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